咳をしても一人

(尾崎放哉)

(種田山頭火)

荻原 井泉水(せいせんすい:1884〜1976)は季語も定型も排し感動を想いが赴くままに詠む自由律俳句の提唱者の一人でした。一高時代の句会の一年後輩の尾崎放哉へ「種田山頭火もこの自由律を得て才能を急速に伸ばした。君なら山頭火を超えられるかも……」と誘いました。放哉がまだ職にあったが30歳のころです。

しかし、不思議なことに、この三人が一堂に会することがなかったといいます。

そして、放哉はその後一気に落魄していきます。酒に飲まれ荒れ狂い、一高・東大という出世コースから転げ落ち、38歳で職を馘になりすべてを捨てて寺男になりました。その時代の自由律俳句。

━━漬物桶に塩ふれと母は産んだか ……薄暗い台所の片隅で漬物桶に塩を振っている。去来するとっくに捨てたはずの懊悩とか煩悩。

金もなく結核に侵された40歳の放哉を最後に引き受けたのは小豆島霊場の朽ちた庵です。粗壁とぼろ畳。激しく咳き込みながら、41歳で没するまでのわずか8カ月間で約3000首という膨大さ。己の生きた証を刻むような作句です。

━咳をしても一人 ……放哉の代表作と言われています。たった7文字で表す宇宙。

井泉水が「自由律俳句」の到達すべき最高の世界は、「作者の全人全心がにじみ出ていながら、その『わたし』が消えている」という涅槃であったのですが、放哉はそういう〝梵我一如〟の世界にここで入ったと思われます。

山頭火は生前の放哉に会わず終いでしたが、死後小豆島の墓を訪ねています。少なからぬ衝撃を受けたといわれてます。以後の山頭火の句に放哉の影が差すようになりました。

━━鴉啼いて私も一人……これを最初に詠んだ時、鴉は放哉か?と思いました。なるほど、「前書き」に「放哉居士に和して」とあるように、いわゆる「本歌取り」です。

そして山頭火の代表句が詠われます。

━━うしろ姿のしぐれていくか

山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩しました。山頭火も「無駄に無駄を重ねたやうな一生だつた、それに酒を注いで、そこから句が生まれたやうな一生だつた」 と言っています。
山頭火と放哉の二人とも師である井泉水や支持者の援助によって生計を立てていた。二人とも物心双方で井泉水があってはじめて俳人として名を成しているのです。

かれらは社会に適合できなかったために才能にすがらざるを得なかったのでしょうか。それとも、すがる才能があったために社会に背を向けざるを得なかったのでしょうか。

萩原井泉水が自由律俳句にこだわったのは、俳句を趣味や道楽から離れて「アート」にしたかったのです。その試みは山頭火と放哉を得て成就していると思われます。

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